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                     by AKIKO ENDO


マイアミビーチの歴史

戦争とマイアミビーチ
第二次世界大戦中は、ガソリン欠乏もあり避寒客はほとんど無かった。 が、空軍のトレーニング・センターとなり、サウスビーチのアパート、ホテルのほとんどが訓練生の宿舎として使われ、高級ホテルは司令官、将校の宿舎に、部屋数の多いホテルは病院として使われた。 政府が支払った額は、1日1部屋20セント程度だった。 空軍の訓練で訪れていた人の中には、クラーク・ゲーブルもいた。 1944年の夏過ぎまでには、アフリカやヨーロッパの戦争も終わり、マイアミビーチのホテルやアパートは徐々に民間に返還され、不動産の売買も盛んになり始めた。
マイアミビーチが観光地、避寒地としてだけでなく、住むところとして栄え始めたのは戦後。 戦時中マイアミやマイアミビーチに駐屯していた人達が家族を連れて戻ってきたのだった。 復員兵援護法をフルに活用し、マイアミ、マイアミビーチに家を買ったのである。

1950年代から
避寒地として長期滞在する場所としてだけでなく、観光リゾート地として短期滞在する人も増え、ホテルの建設がさらに進んだ。 リンカーンロードより北にあった豪邸のほとんどは50年代に高層ホテルやアパートに変わった。
ファイヤーストンの邸宅もその一つで、フォンテンブルー・ホテルが建てられた。 カール・フィッシャーが考えていた第二のパームビーチは、完全に変貌していった。 高層ホテルに投資をしたのは、ニューヨークやシカゴの「ヌーボーリッチ」(産業革命でお金持ちになった人達)で、その多くがユダヤ系だったため、マイアミビーチにますますユダヤ系の人が多くなった。 ファンテンブルーは1954年に、イーデンロックは55年に、そして60年代にはコリンズ・アベニューに立ち並ぶホテルが次々に建てられた。

テレビショーとマイアミビーチ
これら大きなホテルは、1950年代、60年代にはフランク・シナトラ、ディーン・マーチンをはじめ多くのエンターティナー達のショーで賑わった。 そしてこれらのホテルは競って「アメリカン・プラン」を売った。 当時のアメリカンプランとは、1日2食、又は3食込みでホテルの宿泊費をとり、ショーも無料というものだった。 ホテル内で全てお金を使ってもらおうというもので、ホテルにブティークが出来たのもこの頃のこと。

ビートルズのアメリカ・デビューもマイアミビーチで
ラジオ・ショーやテレビ・ショーがマイアミビーチから放映され始めたのも1950年代から。 全国中継のショーを始めたのは、アーサー・ゴットフリーで1953年のこと。 テレビのケーブルからカメラ、脚本家、スタッフ、俳優全てをニューヨークから連れて来て始まったショーは約10年続いた。 実際にはバルハーバー市のケネルワース・ホテルからの放映だったが、マイアミビーチ、マイアミの宣伝に多いに貢献した。 雪に閉じ込められていた人達が客間で、真冬に海に飛び込に泳ぐ姿を目にしたのは初めてだった。 夏はニューヨークから、冬はマイアミビーチから放映するショーが急増した。 1960年代には、エド・サリバン・ショー、ジャック・パーの「ツナイト」、ジャッキー・グリーソンが続いた。 ビートルズがアメリカで初めてテレビに現れたエド・サリバン・ショーは、マイアミビーチのドービル・ホテルから放映された。 ビートルズがエド・サリバン・ショーに出演したのは、1964年の2月のこと。 マイアミ、マイアミビーチの警官は、ビートルズ熱で悩まされた。 人気があるとは聞いていたが、ティーンの騒ぎ方は普通ではなく、ファンの整理に大変だった。 ビートルズはエド・サリバン・ショーに出てすぐに移動する予定だったが、マイアミビーチが気に入り、4日の予定を1週間に延ばしたから大変。 しかもグループは、ドービルホテルの部屋にこもることなく、出歩いたという。

モハメッド・アリとマイアミビーチ
ビートルズとモハメッド・アリが出会ったのもマイアミビーチ。 モハメッド・アリがまだキャシアス・クレイとして知られていたときのことだった。 ケンタッキー出身のボクサーは、オリンピックでゴールドメダルをとった後、プロに転身するために、マイアミビーチにいたトレーナー、アンジェロ・ダンディーの5ストリートジムで訓練を受けていた。 ブラック・モスラム教に改宗して名前を変えての初めてのボクシングマッチもマイアミビーチ・コンベンションセンターだった。

ラスベガスの誕生で、マイアミビーチの観光客が変貌
1950年代、60年代に多かった「サン・アンド・ファン」を追ってきた米国北東部からの観光客は、70年代になって
激減した。 マイアミビーチの競争相手が増えてきたからだ。 ラスベガスもその一つ。 カジノから儲けがあるので、ショーも豪華で、ホテル代も食事も安いラスベガスにお客を取れれてしまった。 アメリカ人の代わりに、中南米やヨーロッパからの観光客が増えた。 が、中南米の客は、二度、三度と来るうちに、ホテルではなく、自分のコンドミニアムを持つようになり、コンドミニアムに転身するホテルが多くなったのは70年代の後半。
サウスビーチのアールデコ地域は、高齢者で一杯で、観光客は皆無であった。 北東部や中西部からの引退した人達でしかもどちらかというと年給暮らしの人が多く、夏になっても北に帰れず、年中サウスビーチに住む人達だった。

マイアミビーチの危機
マイアミビーチが観光地として落ちるところまで落ちたのではと思わせる時期は、1980年のマリエル・ボート・リフト
(キューバから犯罪者も含め10万人近くが1週間という短期間に南フロリダに流れ込んで来た)から数年間。
政府がサウスビーチのアパート、ホテルに難民を収容し、犯罪が急増したために、観光客が寄り付かなくなったためだった。

マイアミビーチの若返り
平均年齢は65歳以上とまで言われたくらい高齢者が多かったマイアミビーチで、1980年代中ごろからアパートの家賃もジュニア・ディスカウントを設けたりして、若者をビーチにひきつける努力をした。 また、廃れたサウスビーチを活性化するために、種々のプロジェクトを打ち出した。 古いアールデコの建物も犠牲になるかに見えたが、アールデコの建物が集中しているオーシャンドライブを史跡として残す運動が起こった。
史跡として認められ、保護されるようになったのは1980年代の後半だった。 アールデコ地域に最初に投資したのは、ヨーロッパ、特にドイツ系の会社や個人だった。 外装はそのままか、強調し、内装を変え、ホテルやrストランとしてビジネスを始めた。 サウスビーチの不動産が上がるにつれ、高齢者は家賃が払えきれず、サウスビーチから姿を消した。 観光地として栄え、ナイトクラブやブティークが多くなったのは、つい最近のこと。 今では「見せたい」「見られたい」人で一杯の感がある。 有名人による投資、経営も目立つ。
高級ショッピング街として出来たリンカーンロードは、バルハーバーや他の新しいショッピングセンターに客を取られ、廃れた。 その廃れたリンカーンロードを復活させたのは、数人の慈善家だった。 その人達はリンカーンロードの安いビルを10数軒買い、サウス・フロリダ・アートセンターに寄付し、ギャラリーにした。 リンカーンロードに多くあるギャラリーは、若い芸術家に安くギャラリーを貸すためにある。 ニューヨークのソーホーも昔はこのようなギャラリーが多くあったが、芸術家が集まるところには、カフェも出来、人が集まる。 人が集まるところには、店も出来、家賃がどんどん上がって行った。 その結果、若いまだ芽が出ない芸術家たちのためのギャラリーは居られなくなり、出て行った。 ソーホーの二の舞にならないように、ビルを買って、家賃が上がる恐れがないようにして寄付したのだった。 ギャラリーがあれば芸術家が集まり。カフェも出来、店も戻って来るだろうということで、マイアミビーチ市の支持も多いにあり、リンカーンロードは今ではギャラリー、レストラン、クラブ、店が並び、人出もサウスビーチ、アールデコ地域に負けないくらいになった。

ヒスパニックとマイアミビーチ
キューバのカストロ革命以前には、キューバから亡命してきた元大統領が二人居たくらいだった。 カストロ革命でキューバを逃れてきたのは、カトリック系のヒスパニックばかりでなく、ユダヤ系の人達もいた。 約6千人といわれているユダヤ系の難民の7割は、すでにユダヤ教の生活習慣が自然であったサウスビーチに、3割はノーマンディ・アイル地域に定着した。 キューバを逃れてきたユダヤ系の人達の多くは、30年代にヨーロッパを逃れてキューバに渡った人達だった。 が、ヒスパニックの人が最多数を占めるマイアミ・デイド郡内でも、マイアミビーチは比較的にヒスパニックの影響を受けていなかったといえる。 1990年代中ごろになって、初めてヒスパニックの市会議員が選出されたほどだ。 が、ヒスパニックの人口も徐々に増え、2000年には市会議員6人の内、3人はヒスパニックになるだろうと言われていた。 実際に2008年現在、市長、シティマネージャーはヒスパニックである。


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